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ルケン・パシパミレ氏追悼

また一つ、偉大なムビラの伝統の火が消えた・・・。
3月22日春分の日で祝日の夕方、ジンバブエからムビラ職人のアドマイアが僕に電話をかけてきた。いつものムビラの注文についての電話かと思ったら、
「ルケン・パシパミレが今朝亡くなったぞ。」と興奮した声が受話器から聞こえる。今ルケンの家に来ているというので、とりあえず奥さんのバイオレットに代 わってもらう。彼女も動転しており、「私も信じられない」「棺桶を買う金もない」と嘆いている。僕もあまりに突然のことで、気持ちの整理がつかず上手なお 悔やみの言葉もうまく伝えられないまま「何とかするから」と伝えて電話を切った。

彼は去年から目の痛みを訴えており、一時は手術をすることも検討していたようだが、結局薬だけで対処することになった。その後もたまにメールや電話でやりとりをしていたが、命に関わるような事態だとは一度も言っていなかった。

現地に滞在中であったムビラジャンクションのくまさんによれば、経緯は以下の通り。
「21日日曜日の夜10時頃、頭の痛みを訴えて嘔吐が続き、家族が病院に運びました。呼吸困難が続いていたので酸素マスクを装着。その後、深夜3時に家族 は一旦家に帰ったのですが、22日月曜日朝6時半に息を引き取りました。担当医によると、脳膜炎ではないかとのこと。10日前にくまさんが開いたパー ティーにもルケン氏は参加し、好物のワインを少し飲み、ムビラを弾いたりしてとても元気でした。」

 脳膜炎は感染症なので、もし死因がそうだとすれば、それまで患っていた目の病気とは関係ないことになる。突然の死に際して、ジンバブエは日本から遠いこ ともあり実感が沸かない。もう二度と彼と会えないという事実を受け止めることがまだできていない。享年58歳。まだまだこれからも活躍してくれると思い込 んでいたが、彼の演奏を聴くことはもうできない。

ルケン氏追悼の意を込めて、彼との思い出を紹介したい。

彼と初めて出会ったのは2001年だが、その時は挨拶しただけだった。
2002年にムビラを本格的に習おうとジンバブエへ二度目の来訪。
宿泊していた宿には日本人長期旅行者が沢山いて、
彼はそんな日本人にムビラを教えるために宿まで出向いていた。
僕も生徒の一人として習い始めたのが本格的な関わりのスタートだった。

正直なことを言うと、当時は僕は彼と相性がしっくりきていなかった。性格が悪い訳ではないのだが、聖人君子タイプではなく、ある種とても人間的な部分に、 僕が馴染めなかったのだ。決して彼に非があったというつもりはない。今から思えば、自分にムビラを習う十分な覚悟が出来ておらず、曲を沢山覚えることだけ で満足していた状態だった。そんな僕の中途半端な姿勢が見透かされていたのだろう。単に曲を教わり、それで終わり、というレッスンが続いた。

2003年まで、僕はガリカイ氏や他の奏者からも平行して教わっていた。いろいろな人たちから習うことで多角的にムビラを理解できると思い込んでいた。し かし、同じ曲の同じような弾き方でも教える人により微妙に違うので、それぞれを弾き分けるということが、習えば習うほど困難になってきた。

2005年に一つの決意をした。まずはモンドロ(ムビラの伝統が強く残る場所のひとつ)の伝統を受け継ぐ、ルケン氏に絞って彼のスタイルを習得しようと。 こちらの気持ちをルケン氏に伝え、彼から了承を得た。そして以前にも増して真剣にムビラを習うと同時に、ジンバブエで習えない人たちの為、彼のスタイルを 後世に伝える為、教本を製作したいということについても理解してもらい共同で作業を始めた。

時が経ち、僕も変わったし、ルケン氏も歳を重ねて円熟味を増して、とても付き合いやすくなった。交わす会話の中身もそれまでとは変わり、ムビラの深い部分 まで話し合うようになった。そして人と人として話が出来るようになった。あまり見ていないようで、彼は僕たち日本人やジンバブエのムビラ職人たちの性格を よく見抜いていた。僕がすぐ熱くなってしまう性格であることも知っていて、そのことをよくからかわれた。

しかし2006年、僕の滞在中に突然、彼は肺に水が溜まり入院してしまう。奥さんと共に、ハラレの大きな病院の相部屋に彼を見舞ったが、すっかり元気がなくて、愛想笑いもできなかった。

ジンバブエは日本とは違い人の一生が非常に短く儚い。元気だった人が突然亡くなってしまうことが頻繁だ。これまでも複数の知り合いが突然にいなくなってし まった。結核病棟にいたので、結核になってしまったのかと勘違いして「ルケンも先が長くないかもしれないなあ。」と密かに覚悟してジンバブエを後にしなけ ればならなくなった。

しかし、僕の悲観的な覚悟とは裏腹に彼は健康を取り戻した。中断してしまっていた教本作成も再開し、2008年の1月に、完成本を彼の元へ届けることができた。

僕自身は財政的、文化的、その他もろもろの障害が多すぎて難しいと思っていた来日公演も、同じく彼の生徒であるハヤシエリカさんの発起で実現。
2009年4月に1ヶ月の滞在をし、日本各地でライブとワークショップを行った。ワークショップでは、ムビラ音楽の楽しみ方を歌、ダンスなど様々な形で教 えてくれた。そしてルケン氏はライブでいつも「平和」「理解しあうこと」「ハーモニー」の大切さをメッセージとして観客に伝えた。普段はそんなことをあま り話したりしたことがなかったので、意外に思ったが、彼の素直なメッセージは僕の心に響いた。彼と一緒にライブ演奏する度、音楽は素晴らしいなあと改めて 実感した。

東京でのンゴマ・ジャパニ主催イベントが終了した後の打ち上げでは、関係者みんなで肩を組んで円陣を作り、イベント成功の高揚感と共にそれら平和のメッセージを分かち合った。

日本での最終公演となる横浜サムズアップ「ムビラサミットVol.4」では、
大入り満員の観客を巻き込んで、歌い、踊り、会場が最高の一体感で結ばれた感動的なライブだった。彼の来日を実現するにあたっては、エリカさんを中心として、大変な苦労があったのだが、関わったみんなの努力が報われた瞬間だった。

彼のムビラ演奏スタイルの魅力はその即興性にある。もちろん、基本パターンはあるのだが、合奏がノッてくると次から次へと聞いたこともないようなカッコい いフレーズを繰り出す。演奏が終わった後で、それを再現して欲しいとねだったところで後の祭り。隣で合奏しながら、そんな素晴らしい彼のクチニラ演奏を眺 めることは弟子として、とても幸せな時間だった。

そして彼の歌は聴く者を決して飽きさせない魅力を持っている。決して、シンガーとして最高ではないが、変幻自在のメロディーはプレイと同様に常に留まることを知らず、ムビラの音色に絡まり、自在に節回しを変えて、いつの間にか人々の心を掴む。

彼の自慢は自分の演奏がスピリットを降ろす力を持っていることだった。ムビラレッスンの合間のおしゃべりで、こんなエピソードを披露してくれたことがある。
「夜がまだ明けぬ朝方に誰かが俺の家のドアをしきりにノックするんだ。眠い目をこすりながら開けると、知り合い(ムビラ界ではそれなりに有名だが名誉もあ るのであえて明かさない)が立っていて、「昨晩から儀式を開いているが、まだスピリットが降りてこない。お願いだから来て演奏してくれないか」と頼まれ た。当然、寝ていたけどが仕方が無い。俺が会場に赴いて演奏を始めたら、一曲目で霊媒師に先祖のスピリットが降りてきたよ。」

ルケン・パシパミレ氏は1952年ジンバブエのモンドロ生まれ。
地元のムビラグループ「Mhuri Yekwa Rwizi(ムリ・イェクワ・ルウィジ)」
のメンバーとして1983年、ムビラバンドとして初めての海外ツアーを行い、
その後も2回ヨーロッパを公演して回った実績を持つ偉大なグウェニャンビラ(ムビラ名人)。ムビラCDの定番「Shona mbira music/ショナ族のムビラ2」でも若き日の演奏を聞くことができる。

ひいおじいさんである偉大な霊媒師「パシパミレ」が存命であった19世紀後半、一族が住んでいたチトゥンギザの聖地が、昨年彼らに返還された。それを祝う 大きな儀式を執り行うために、ルケン氏は昨年の秋から資金集めやオーガナイジングをしていたところだった。今年の4月、5月頃には開催したいと考えていた ようだ。僕も訪れてみたいと思っていた場所での儀式だったので、出来ることなら参加したかったのだが・・・。

残された我々としては、彼から受け継いだムビラ奏法を伝えていくことしかできない。伝統の火を絶やすことなく、これまで同様にムビラの素晴らしさを日本に伝えていきます。ルケン氏もスピリットとなり、我々を見守っていてくれるでしょう。

ムビラジャカナカ マサ

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