2020年10月中旬。コロナに…
信長に仕えた黒人「彌介」と秀吉が楽しんだアフリカンダンス
日本とアフリカの初めての出会いについて興味深い逸話が「アフリカ発見」藤田みどり著に収められています。なんと日本で最初にアフリカ人に会ったのは織田信長で、アフリカンダンスを最初に楽しんだのは豊臣秀吉だったようです。
16世紀にヨーロッパの世界侵略の幕開けとなった大航海時代。日本に最初に来た黒人は、船員や下僕としてポルトガル船に買われたか、雇われたかして、日本 までやってきた者たちでした。種子島に漂流したポルトガル船が鉄砲を伝えたのが1543年。もしかしたらこの船の中に、あるいはそれ以前にやってきた交易 船に黒人が乗っていた可能性もありますが、記録には残っていません。最初の記録となるポルトガル船長が残した手紙によれば、1546年に日本に初めてやっ てきたポルトガル船には黒人も乗っており、日本人が異常なほどの興味を示したそうです。狩野内膳が描いた「南蛮屏風」に もその姿を見ることができます。このリンク先は屏風を保存する神戸市立博物館のHPですが、左下の屏風をクリックすると献上品と思われる「トラ」を運ぶ黒 人たちを見ることができます。当時、肌の黒い人間を見たことが無かった日本人たちは、その存在に熱狂し100km先からも見物客がきたとか。宣教師たち は、日本人があまりに黒人を見ることを喜ぶので客寄せパンダとして布教に利用したそうです。
1581年2月、ヴァリニャーノというイエズス会宣教師の長が黒人の従者を連れて京都にやってきました。京都到着まで、立ち寄った各地で日本人の好奇心を 刺激して大人気を博したそうです。京都では、噂が噂を呼んで宿泊していた南蛮寺(教会)に人だかりができ、怪我人もでるほどの大騒ぎ。ヴァリニャーノの謁 見リクエストに対して、3日後をセッティングした信長も、はやる気持ちを押さえることができず、翌日には呼び寄せる段取りに変更。本能寺において、初めて 黒人を自分の眼で見た信長は、肌が黒いことが信じられずに、その場で体を洗わせたそうです。肌をこすると更に黒くなるので驚いたとか。「信長公記」による と黒人は「健やかで器量がよく、年齢26、27歳くらい、牛のように黒く日本人の十人分に匹敵する力持ち」だった。身長は180cm以上の大きな男性で、 はるばるモザンビークから来たのでした。信長はこの黒人のことをえらく気に入って、宣教師に頼んで譲り受けてしまいます。その後、彌介(やすけ)と名付け られて、侍の身分ではなかったけど、忠実に信長の傍に仕えました。本能寺の変では刀を持って戦い、信長が自害すると息子の信忠の元に赴き、最後まで忠義を 尽くしましたが明智光秀軍に捕まります。光秀は、黒人だからということで放免し、宣教師の元へ戻すように指示しますが、彌介のその後の行方は記録にありま せん。
恐 らく信長が登場するどのTV時代劇にも彌介が登場したことはないでしょう。戦国時代の日本に黒人が出てくるだけで、説明が面倒になってしまうし、インパク トが強すぎて本筋が霞んでしまうだろうから。逆に、この逸話をうまくシナリオに盛り込んで「時代小説」と「現代風バンドサクセスストーリー」の融合という 高度なミクスチャーをフィクションで作り上げたのが、「桃山ビート・トライブ」 (天野 純希著)。
彌介は明智光秀に放免された後、故郷に帰る金を稼ぐ為に堺の港で働いていたが、出国させる気のない主人にこき使われていたことが分かり脱走。人気のない河 原に潜んでいたところを太鼓奏者として見いだされて、笛奏者、三味線奏者、踊り子の三人とともに一座(バンド)を結成。いままで聞いたことも無いテンポの 速いビート(アフリカンビート)に日本伝統音楽を載せて熱狂的な即興音楽を生み出す。そして、満を持して見世物小屋の集まる四条河原にてデビュー!という ドラマチックな展開。メンバー構成だけみると僕が今やっているパチシガレ・ムビラズと同じ(アフリカ人男性一人、日本人男性二人、日本人女性一人)なの で、いつにも増して感情移入してしまいました。
今ではすっかりビジネスに取り込まれてしまったロックやパンクが本来持っていた反体制的な姿勢へのオマージュと思われる破天荒さ、そして支配層に不満を募 らせる民衆が彼らに共鳴する姿が痛快です。当時における京都の風俗、街の雰囲気などがうまく描かれており、現在の京都の街を知っている人なら更に楽しめま す。柳町が遊郭街で、三条河原が死刑場だったとは知りませんでした。四条河原は今も昔も変わらず賑わっていたようです。文体は現代風ですから時代物は苦手 な人でも読みやすいですよ。
さて、豊臣秀吉はどうしてアフリカンダンスを見たのか。これもやはりヨーロッパの宣教師が連れてきた黒人でした。時代は下り1593年、名古屋城内にて秀 吉がポルトガル人総司令官に謁見したとき、赤い服を着て金の槍を持った護衛役の黒人が二人いました。芸を見せるように言われた二人は笛と太鼓を奏でて踊り を始めます。これぞ記録上日本で最初のアフリカンダンスではないでしょうか?!ノッてきて、気分が高揚してしまった二人は「もう十分だ」と言われてもあち こちを飛び回り、踊り続けて、みんな大爆笑だったとか。殿中の畳敷きの上で、軽いトランス状態になり目をひん剥いてアフリカンダンスを踊る姿が目に浮かび ますね。
それから400年が経った20世紀後半には、多くのアフリカ黒人が日本にやってくるようになりました。新潟に住む親戚は昔、暗い夜道に突然現れるアフリカ からの留学生にビックリしたそうです。僕は首都圏で育ったし、TVで黒人の姿に免疫ができていたから、びっくりした記憶というのはありません。それでも、 二十歳頃だったか、横浜の本牧ふ頭に忍び込んで遊んでいたら、大きなコンテナ船に乗っていた船員が、それまで知っている黒人よりも更に黒い、まさに漆黒の 皮膚をしていて驚いたことがあります。後にアフリカを旅したときに同じ肌の人をスーダンあたりで見かけました。黒といってもいろんな黒があるのですね。
そして21世紀ともなれば、東京には多くのアフリカ人が住み、地方でも珍しくなくなってきました。そして気づけば僕もジンバブエからやってきたトンデと一 緒にバンドを組んで日本でライブ活動をしています。世界の文化が混じり合い、新しいものが生まれる面白い時代になったものですね。